久々の雨だが・・・
今年の夏の暑さも異常だった。
本州から来た人が、「北海道は涼しいと思ったのに」というほど、北海道でも猛暑が続いた。
これが温暖化なのだろう。
今日は久しぶりにまとまった雨が降った。
多少は涼しさも感じたが・・・。
やはり、暑いものは暑い。
こうも暑い日が続くと、体調が優れない。
日中は動く元気がなく、どうしても夜間に活動してしまう。
なんとか軌道修正を図りたいが・・・。
今年の夏の暑さも異常だった。
本州から来た人が、「北海道は涼しいと思ったのに」というほど、北海道でも猛暑が続いた。
これが温暖化なのだろう。
今日は久しぶりにまとまった雨が降った。
多少は涼しさも感じたが・・・。
やはり、暑いものは暑い。
こうも暑い日が続くと、体調が優れない。
日中は動く元気がなく、どうしても夜間に活動してしまう。
なんとか軌道修正を図りたいが・・・。
今日、8月15日は65回目の終戦の日。
戦争を知らない我々のような世代の人間は、どれほど今日という日の重さを感じているだろうか?
戦争を体験した人達も高齢となり、語り手も少なくなってきた今こそ、改めてあの戦争がなんだったのか、見直すべきと思う。
体験者の多くが、辛い過去を思い出したくない、という気持ちであることは分かる。
だが、だからこそ、その想いを次世代に受け継がなければ、いつかまた同じ、悲しい過ちが繰り返されるかもしれない。
世界中で様々な紛争が続いているのが現実だ。
それぞれの思想、信念や利害、政治的・歴史的要因が絡み、単純に解決できるような問題ではないだろう。
しかし、同じ人間同士が殺し合い、傷付け合う状況が、正しいはずがない。
辛く悲しい戦争を乗り越えた日本だからこそ、残すべきものがあるはず。
先日、広島の原爆の日の式典に参加した高校生の記事を新聞で読んだ。こんなにも悲惨な現実があったとは知らなかった、と語っていたのが印象的だった。
また、先日の紙面にはB級戦犯として死刑となった元軍人の方の記事が載っていた。
死刑となる直前に家族に宛てて書かれた手紙も全文が掲載されており、読んで思わず涙が出た。
まだ幼い我が子と妻とに向けて語られる無念の想いは、戦争という悲惨な現実が残した大きな爪痕の痛ましさをこれでもかと感じさせた。
世界中でそんなことがたくさん起こっていたのだ。
いや、今も続いているのだ。
今回の広島の式典には、「核の無い世界」を目指し、各国の要人も参加した。
名目だけは無く、真の意味で平和な世界が訪れることを切に望む。
そのためには、我々が「知る」意識を持つことが欠かせないと痛感した。
毎朝毎夕自転車で通勤していると、公園やら駐車場やらでせっせとゴミを拾う人をよく見かける。それだけ街がゴミだらけということだ。
日本人は平気でそこらにゴミを捨て、落書きをし、自然や公共物を壊す。そういうことが当たり前という環境の中で育ったためだ。
自分は決してキレイ好きではないし、部屋もろくに片付けられないようなずぼらな人間だが、公共の場でゴミをポイ捨てするような恥ずかしい真似は決してしない。
(だからといって、落ちているゴミを拾うかというと、そこまではしないので、結局褒められたものではないが・・・)
自転車で毎日のように河川敷を通るが、ひどいものだ。
特にこの時期は、花火だの焼肉だのをやって、そのままゴミをほったらかしていく「ゴミのような奴等」がたくさんいる。
自分の部屋でもそんなことをするのだろうか?
吸殻や空き缶やティッシュや割り箸を、平気で床に捨てておくのだろうか?
自分の部屋ならそうはしないだろう。
誰も見ていなければいいとか、他の人もやっているからいいとか、その程度の思考で物事を考える連中があまりに多すぎる。
お前らは一から十まで、やっていいことと悪いことを教えてもらわないと判断できないのか?
親や、教師や、先輩や、上司が、手取り足取り指導をしないと、自分で学ぶこともしないのか?
考えろ。そしてもう少し自分の行動に責任を持て。
誰かがそのゴミを拾ってるんだぞ。ボランティアの人かもしれないし、税金で雇われた清掃員かもしれない。
いずれにしても、誰かが片付けないことには、お前が何も考えずに捨てたその空き缶も、弁当の空き箱も、花火の燃えカスも、そこに置き去りだ。
何より、その程度の無責任な行動を取る人間だということで、自分自身に対して引け目を感じたりはしないのだろうか?
自己を多少なりとも戒めたり、自身の中で守るべきルールであったり、自分なりの倫理観であったり、そういったものを持ち合わせてはいないのだろうか?
それとも、この薄汚い日本を、別に普通だと思ってしまっているのだろうか。
化粧をしようが、香水を振りかけようが、中身が汚ければ意味が無い。
外面云々以前に、心を磨いたほうがいい。
10年後の日本が、もっと本質的にクリーンになっていることを願う。
今日は自分の誕生日だ。
だからどうということはないのだが・・・。
この歳になると、年齢など気にならなくなってくる。
自分は元々あまり年齢に対してこだわりがなかった。
その日その日を悔いの無いように生きる。
その積み重ねが今の自分であり、未来の自分だ。
だから、若いうちは可能性に満ち、歳を重ねれば経験の豊かな自分になっている。
そう考えている。
今のところはその目標に向けて、順調に生きていると思う。
明日の自分が楽しみだ。
明後日の自分はもっと楽しみだ。
そう思っていられることに幸福を感じる。
だから、誕生日だろうがなんだろうが、特別なことはない。
自分は自分。
人間誰しも、経験や知識に基づき自分なりの考え方ややり方を持っている。
知らない問題や新しい課題にぶつかったとき、まずはその「既存」の知識ややり方で対応できるか考えるだろう。
だが、それだけでは解決しないことは往々にしてある。
成長できない人は、それでも既存の概念の枠の中になんとか収めようとして、失敗する。
成長し続ける人は、常に新しい知識を貪欲に取り込み、消化し、吸収している。
そして、概念の枠をどんどん広げていく。
自分自身、最近この「新しい概念を受け入れる柔軟性」が低下してきていると、如実に感じ始めている。
大きな原因は、以下の2つではないかと考えている。
ひとつは単純に加齢による能力の低下で、新しい知識を習得しにくくなっていること。
もうひとつは、つまらない自己満足に陥っていること。
補足すると、これは自分の経験や知識に対して、過信してしまっていることを意味する。
これだけやってきたんだから、大丈夫だろう、というような慢心が、どこかにあるのだ。
ことIT業界においては、昨日まで当たり前だったことが、今日には通用しない、というような劇的進化が稀ではない。
古いままの概念を壊せない状態では、未来がないのだ。
「絶対はない」
自分はこの言葉をずっと信条としている。
どういう意味かというと、どんな事物に対しても、例外が発生する可能性を常に考慮しろ、ということ。
例えば、1+1は2だと教えられる。
一見、疑う余地は無いように見える。
だが、もしかすると1+1が2ではなくなることもあるのではないか、と考えてみる。
現実問題として、そういうことが起こるとか起こらないというレベルの議論ではない。
万が一、そういう事態になっても、許容できるような柔軟性をもっておこうという意味だ。
狭い概念の中で凝り固まった考え方をするのではなく、柔軟にその枠を超えるようなパターンも考えてみよう。
案件の要件だけ満たして、さっさと納品して、検収通して、入金になればはいおしまい。
また次の案件を狩りにいく。
ドキュメントのページ数を稼げることや、テストを通すことや、入札の駆け引きに勝つことがスキル。
いまだにこれがすべてみたいな狩猟民族的思考でウェブ業界を生き抜こうとしている人たちがいる。
ちょっと待てw
なんかもっと、目標とかアイデンティティとかはないの?
そんな単発的といか、狩猟民族みたいな考え方じゃ、いつまでも安定しないじゃないか。
それに、案件の中身も見ないで、金額ばかり見て、取るか取られるかみたいなことばっかりやってて、何が残るというのか。
喰えるものならなんでも喰うという姿勢は、貪欲というより雑食で、オールラウンドと言うより乞食っぽい。
こういう方針でやっていくんだという信念とか、こいう部分を伸ばして売り込もういう方針とか、そういうものが無いと、ただダラダラと、顧客の言うがままに働く奴隷に成り下がるだけ。
まずは何をしたいのか。明確な方針を示そう。
「金が欲しい」
とかいうのは、方針ではないからw
ここは譲れない。これなら負けない。この部分に関しては、他にはない知識と実績がある。
そういう基盤となるものがあって、その上で初めて需要が生まれてくるもんだろ。
「得意とか不得意とか、そいうのはないです。はい。言われればなんでもしますよ。ええ。なんでも」
って、それでいいの?
いいなら、別にそれでいいんだけど。
そんなんで、いい仕事はできるはずがない。
行き当たりばったりになるに決まってる。
きちんとしたコンセプトや方針を持っていれば、一方的に顧客の言いなりになることは無いはず。
そして、なんでもかんでも請け負うってことも無いはず。
暑い。
まして、自分の部屋では、常時サーバーが起動している。
加えて、作業用のマシンまで起動すると、もはやサウナも同然だ。
そんな中で、さらにドラムを叩こうというのだから、我ながら正気とは思えない。
ナイアガラよろしく汗の滝を流している今日この頃。
さて。
北海道の家には冷房がほとんどない。
自分の部屋には、エアコンはおろか、扇風機すら無い(もとい、USBの玩具的扇風機ならある。電気屋のレジ前のカートに山積みしてるアレ)
だから、しかたなく窓を開けてしのぐ。
虫の侵入に対しては網戸で対抗するのだが、その防衛線は心ない我が家の猫によって突破され(出入り口にされた)、今は無残にも決壊した状態となっている。
直せばいいのだが、それも面倒くさがって放置しているせいで、夏はよく蚊が出没する。
今も、顔面をはじめ、両手や背中、足など、完膚なきまでに喰われまくり、かゆいったらありゃしない。
掻かずに耐えるのも精神修行の一環と勝手に位置づけて、なんとか正気を保ってはいるが、これがずっと続くと思うとただでさえ過ごしにくい夏が一層過酷なものに感じられる。
早く網戸を直せ、というのが当然ながら妥当な結論だが・・・。
料理の嫌いな料理人の作ったモノを、果たして食べたいと思うだろうか?
別に車に興味ないんですけどね、という営業マンから車を購入する気になるだろうか?
別にプログラムとか好きじゃないんですけど、というプログラマに、仕事を依頼できるだろうか?
「別にプログラムなんて、動けばいいじゃん。」
そんな人たちと一緒に仕事をしていていいのだろうか。
最近、そんなことばっかり考えている。
自分が仕事を辞めることを、なんだかんだと正当化しようとしているのだろうか。
あるいは、病んでいるのだろうか。
暑さが苦手。
ここ数日、好天に恵まれていることもあり、札幌でもかなり気温が上がった。
すると、もう体調がすぐれない。
異常に疲れる。
本格的な夏を前に、早くもバテぎみ。
夏は嫌いではないが、得意でもない。
こんなことを言うのはなんだが、早く秋になってほしい。
最近、過剰に知識欲が膨張している。
情報過多の時代だ。ある意味、情報の摂取のしかたを間違えると情報に溺れかねない。
色々なことを知りたい、学びたいという気持ちが先行しすぎて、どれもが中途半端になっている現実を、最近ヒシヒシと感じている。
ひとつ言えること。
それは、世界がどれだけ進化し、移り変わろうが、自分は自分だ、という確かな主張が必要だということ。
それが無ければ、流されて終わる。
選択の権利は、個々に与えられている。
情報を選択するのも、行動を選択するのも、個人の自由だ。
良くも悪くも、自分で考え、自分で選択しなければ意味が無い。
それは、決して安易ではないのだが・・・。